昭和四十八年七月三十日 御理解第八十節


 「年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先に生まれて来たのではない。皆神のおかげで生まれて来たので、早く生まれて来た者程世の為に働きを沢山しておる道理であるから、年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合不行届きが重なれば敬うてくれぬ様になる。信心する者はよう心掛けて居るがよい。」


 何かあんまり合点が行かん様な御理解ですね。成程年寄りは自分勝手に先に生まれて来たのじゃない。神様のおかげで生まれて来たことだけは分かるけれどもね。先に生まれて来た者程世の為に働きを沢山して居ると云うところ等は、成程そういう人もあるけれども、そうでない人もある。かえって世の中に悪を流したと、世の中のこんな御厄介になってと云う人も沢山あると思うのです。
 だからこの様なところもあるのだけれども、世の為に沢山働きをして居る道理だから大事にせよと云われた分ではですね。
 それから後半のところの若い者でも役に立つ人は何となく・・・・このへんのところは分かる。若い人でも役に立つ人はやっぱり敬われたり尊ばれたりする。だから、それとこれとは対照にならない様な感じがする。
 ここで若い人でもと引用しとられる様だけれども、何故かと云うと今申します様に年寄りが生まれて来とるのは、成程神様のおかげで先に生まれて来とられるけれども、それがそうにお役に立った者ばかりではない。かえって世の中の御厄介になりに来と云う様な人達も私はあろうかと思う。
 ですから、こう云う風に理屈を云うとそうなるのです。問題はここではまあとにかく年寄りを大切にせよと云うところだけを頂いて良いと思うですね。年寄りを大切にせよと云うところだけを。 一番初めに年寄りを大切にせよと、人間は自分のと・・・・後はいらん。全部要らん。只教祖様が年寄りを大切にせよと仰せられるならです、例えその人が世の中に悪を流しておった人であろうが、又は御厄介になって居る人であろうが、只教祖様が年寄りを大切にせよと仰せられるから大切にすると云う生き方のなるところからです、私は大変な働きが起こって來ると思うです。此処にはね、云うならば宇宙の大真理とでも申しましょうか、私がこれから聞いて頂きたい事は、これが合楽哲学であろうかと思う様なことにつながるのです。
 教祖様が年寄りを大切にせよと仰せられるから、それが悪婆さんでも悪爺さんでもあってもです、例えば年寄りを大切にせよと仰せられるから大切にすると云うところを頂けば良いのです。ここはもう大変な素晴らしい、いわゆる限りないおかげの頂いて行けれる世界につながる為にはここんところを私共は頂かなければ出来ん。
 教祖様がそう云うて下さるから、わけは分からんけれども、それを実行するのだと云うこと。それは例えば悪婆さんであろうが悪爺さんであろうが。
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  昨日は敬親会でした。年寄りの方ばっかりが沢山集まる。最近は村内の方達やら、もう新しいおばあちゃん達が何人か見えるのです。私が見知らん方達が見えている。まあ色々話を聞きよるとです、ほんなごと面見苦しいこと云う婆さんが居るのです。これじゃ若い者から大事にされない筈だと云う様な人達がある。
 面見苦しいと云うことは、憎たらしいと云う意味ですよね。この辺の格言です。本当にこれじゃ若い者から大切にされまいと云う様な、やっぱり年寄りが居るんです。そして私が一番不幸とこう云うとる不幸だもん。けれどもです、教祖様が年寄りを大切にせよと仰せられるから大切にすると云うことになって参りますとですね、これからもうそれこそ、想像もつかない様な大きな働きの世界に入って行くことが出来るです。
 まあ、意味は全然違うて参りますけれども、昨夜私は遅うにここに出てきて御祈念さして頂いて、神様からあることのお差し止めを頂いた。だから神様はそれは修養のためで御座居ましょうか、それは体の為になるからでありましょうかと伺うたら、そうでもない、こうでもないと頂いた。
 そんなら修養の為になり、体の為になるからで御座居ましょうかと云うと、いやそうでもない。私は分からなかった。だから暫く御祈念ささいて頂いても分かりませんから、どう云うことであろうかと私は思うた。
 そしたら今のことです。神様からそう云うて下さるから「はい」と云うて頂くのが信心じゃと、成程、体例えばこれはこう云う事。私は糖尿病の時にお医者さんに見て貰うた時に、軽い運動することやらを言われたんです。例えばこの境内を二、三回まわっただけでもよ運動になるでしょう。けども私はそれを絶対致しません。けどそれは神様からこう云うことはいらんと言われたからせんのです。これは人間の考えではね、例えば足がこんなに悪いですから歩く稽古をさせて頂いたり、軽い運動をさせて頂いたら糖尿病も良かろう、健康にもよかろうとこう、だからそれは確かにそれはよいだろうと思うです。けれどもそれはたったそれだけのよかだけでしょう。
見先だけが良いだけでしょうが。けれども、神様が言うて下さるから「はい」と言うことになるとです。これは無限のおかげにつながることですよ。この辺が私が大真理につながることが合楽の哲学だと云うことです。
 わたしは沢山の水気を取ります。もうそれこそサイダーの半ダース位はアッと云う間に呑んで仕舞います。ところが何年前でしたでしょうか、二、三年前サイダーを呑むことをお差し止め頂いた。だからサイダーは咽を通るときじかじかして気持ちがよい。冷やしておくと。だから私は何の為にサイダーがいかんのか今でもわからんのです。なら砂糖が入っとるけんじゃろうか。ところがならジュースはよいのですから同じ事です。そして神様からサイダーの代わりにビールを呑めと頂いた。
 それは薬になるとか、糖尿病によいからとかじゃないらしいです。これは自分一人では酒は呑む様なことは致しませんけれども、だからおビールだけは酒と思わずにサイダーと思うて呑みよるとです。だからこれは理屈じゃないでしょう。けど、神様がそう云うて下さるから、神様がそう教えて下さるからそうする迄のこと。何年経ちますけど、まだその意味はわからんです。今サイダーを飲んではいけないと仰ることもわからんから実行せんかと云うと実行し続けとるです。体がこんなんじゃから、散歩することはよかろうと思うから、神様にお願いしたら散歩はいらんと神様が仰ったから、それっきり散歩と云うことは、   人が大変親切に云うて下さいますけれども、神様からどうと云うたって皆さんわからんから、まあ左右にして云うことを聞きません。
 神様がそう云うて下さるからさせて頂いて居るだけのこと。私の信心でのおかげと云うのは、限りないおかげにつながるのは、こういうところがあるからだと思うですよ。
 合点がゆかなければ承知しないと云う生き方では本当の信心は成り立ちません。なら今日の年寄りを大切にせよと云うところの後のところをずっと読むとです、どうも合点の行かんところばかりを感じますけども、只年寄りを大切にせよと仰せられるから、またそれが信心の心掛けと教えて下さるから、例えば憎たらしい年寄りでもです、大切に神様がああ云うて下さるのだから教祖様がああ云うて下さるのだから憎たらしかったと思いよった年寄りでもひとつ本気で大切にしようかと云う気になったら、そのおかげと云うものは限りないおかげにつながって行く。そういう生き方は教祖様もそういうこと幾つもありますね。
 今日は親戚の誰それが死んだから親戚の者を誘うてお悔やみに行けと仰せられた。それで誰さんが神様からいま亡くなられたと云うお知らせを頂いたから、お悔やみに行きましょうと云うて、お悔やみに行かれた。ところが実際は当の本人が出てこられて、や皆さんお揃いで今日は何事ですかとこう云う。もうそれこそ教祖様としては穴があれば入りたいと思われたろうと思うです。
 そこでそこは何とかつくろうて帰って来られた。一緒に行った方達やらが、もう文さんが信心気違いじゃから、こげな迷惑の事になたと云うて、そういうこと御伝記にもありませんけどもね。そういう風に云われなさったとさえ思われる、ね。そういう事です。行き損じゃから、行き損どころかかえって本当に恥ずかしい事です。
 ところが神様がです、帰りには戻しの風は十増倍、戻しの風は十増倍と云うて帰れと仰った。ここなんですよ、教祖の信心は。 
 例えば私の体でもうこれは絶対医学でも常識でも考えてもです、少し軽い散歩をさして貰うことは体にもよかろうとこれは感じるです。ずうっと座ったきりですから、良いはずです。けどもそれはよい筈だと云うだけのおかげです。けども神様は散歩はいらんと仰せられたから私は絶対散歩は致しません。
 沢山サイダーを飲みよったけれどもです、サイダー飲むなと仰せられたからその日限りにサイダーを止めた。そしたら神様が代わりにビールを飲めと仰る。そこでビールをサイダーの様にがぶがぶ飲むわけじゃないですけれども、やっぱり咽がじがじがする冷たいものが欲しいときにはサイダー(ビール)飲んでみるといった様なことがやっぱりあります。これは許されとる。それもまあ五、六本迄位はと神様が仰っとる。しかし五、六本も飲む様なことはまず無い。一本がせいぜいです。そりゃどういう話ですかと、昨夜はそこんとこを聞いた訳です。そういう例えばこれは修行とも思われんけれども、体の為になるけんだろうか、修養になるけんだろうか。いいや体の為になるけんじゃない、修養になるけんじゃない。なら修養にもなるだろうか、体のためになるだろうかと云うたらそうでもない。よくわからんけれども、実行するだけなんだ。そういう生きかたがです、これは云うならば私共はその大真理、簡単に云ってますからそれを学問的に説くことはなかなか難しいですけれども、やはり大真理につながるだろうとこう思う。
 そういうところを私は合楽哲学と云う風に思いもするし、人が云うところはそこであろうと思う。
 そこにはね、もう目先の体が良うなるとか、成程体に良かろうとか、修養になるけんと云うようなことは問題ではなくなって來るわけです。只神様がそうさせて下さるからそうするだけの事なんです。そこにはそのために体が悪くなろうが、そのために例えば困った結果になろうが、恥ずかしい思い又はおかしいことになって來るか分からんけれども、そういう事はもう問題じゃないわけです。
 教祖様の場合もそうです。神様どういう訳であんな恥ずかしいことを教えて下さるでしょうか。 今日は本当に私だけではない親戚の者にまで迷惑掛けましたと云う風には仰ってないです。もう全然問題にして居られないです。
 そしたら神様が戻しの風は十増倍、戻しの風は十増倍と云うことは限りが無いと云うことです。いわゆる限り無いおかげにつながって行けれる、云うならもう哲理なのです。大真理なのです。
 そこでならここでは親先生任せと云うことを言われますけどおかげば頂かんならんから親先生任せと云うのはこれは駄目です。
 親先生がああ云うて下さるからわけは分からんけれども、又は左右というおかげの世界、おかげではなくてです、こうすりゃこうなると云う答を出すためにです、親先生の言うて下さる通りにすると云うのでは、だから今日の親先生任せと云うのは駄目な訳です。目先のおかげにはなるかも知れませんけれども、これは底が抜けたもの、親先生がああ云うて下さるからさせて頂いておる。もう右とか左とか、おかげになるとかならないとか、もう別問題だと云う頂き方を皆さんがなさる様になるとです、これはいよいよ底の無い程しのおかげにつながるのです。
 無限大のおかげにつながる。そういう生き方が自分の信心に血肉になって参りましたら素晴らしいことですね。そこで今日の御理解年寄りを大切にせよと仰せられる。そのところを段々読ませて頂きますとです、そりゃ本当に年寄りらしい年寄りなら大事にしようけれども、年寄りらしからぬ憎らしいそれこそ頑固じじいやら鬼婆のごとあるとが世の中には居る。けれども教祖様が年寄りを大切にせよと仰せられるから頑固爺やら鬼婆のごたるとでも大事にすると云うことになったらね、これは素晴らしいおかげにつながるです。
 今日は取分け年寄りを大切にすると云うところを頂いて貰いたいですね。今日の御理解は八十節ですから年寄りを大切にせよとこう仰せられるのですから、それこそ昨日私が年寄りの話を聞かせて頂いてもそれこそ面見苦しいことを云う年寄りが中にありますよ。 けれどもそこを面見苦しいとも憎らしいとも思わずに成程教祖様がああこげんところを年寄りを大切にせよと仰せられるからと思うて大切にして行く信心こそがです、無限大につながる信心だと云うことを今日は聞いて頂きましたですね。  どうぞ。